肉体を持つ魂の存在において、収縮の段階が終わり、自己の拡大へと内向きに転換し始める瞬間が訪れます。この転換はあなたの存在の深いところで起こり、最初は自覚されないかもしれません。しかし、かつて魅力的に思えたもの(富、友人、酩酊、性的征服など)が、もはや「自分を満たしてくれない」と感じ始めるのです。この「世の空しさ」の感覚は、より深い現実への開かれには必要なステップです。
この内なる方向転換と、実際にシャクティパータが起こるまでの時間的ギャップが長ければ長いほど、その目覚めはより強烈に感じられるようになります。つまり、ある人は非常に強烈なシャクティパータを受け取り、すべての現実との一体感や、自分の本質が生まれることも、作られることもなく、ただ永遠なる存在であるという神秘的な体験をしたり、全現実が一つの慈愛に満ちた光に包まれる感覚、脊椎をエネルギーが駆け上がり爆発するような体験、または至福の波が身体中を駆け巡るといったことを体験したりします。他方で、シャクティパータが非常に微細で、ほとんど気づかれないような形で訪れる人もいます。
両者の違いは、その人がどれほど長くシャクティパータを「待った」かということです。長く待てば待つほど、その人の渇望(意識的か無意識的かは別として)は強まり、それが条件が整ったときにより強烈な目覚めを引き起こすのです(これは乾いた薪が火をつけたときにすぐに燃え上がるようなものです)。目覚め自体はどちらの場合も同じであり、それはその人を神聖なる現実との完全な統合への道に不可逆的に乗せるという意味において同等です。
シャクティパータを受けてもそこまで大きなインパクトを感じない人でも、人生が変容していきます。しかし、それを長く待っていなかった分、世俗的な楽しみに満たされるという幻想がより強く残っており、そのために引き寄せたシャクティパータも微細になるのです(これは「より強いシャクティパータを受けた人が霊的に優れている」という誤った見解を正す教義です)。大切なのは、どちらの場合でも「目覚めが起こった」ということです。
もし自分のシャクティパータが微細なものだった場合、「本当に起こったのか?」と疑問に思うかもしれません。その場合においても、最も重要なのは「体験そのもの」ではなく、「それが人生にもたらす影響」です。目覚めの兆候にとしては、目を閉じて、ゆっくりと深呼吸し、内側に意識を向けると、すぐに「存在感」や「内なる自分と共にいることの甘美さ」が感じられます。
シャクティパータを受けていない人は、内に向かうことにあまり耐えられず、そこに意味を見出すことができません。なぜなら、内側に神を感じないからです。
また、シャクティパータを受けた人の人生には、次のような明確な変化が見られます:
・世俗的な楽しみに満足できなくなる
・精神的な教えへの魅力(たとえ理解できなくても)
・より健康的な食事への自然な志向、身体を敬う気持ち
・精神的な教師やその道に生きる人への敬意や畏敬の念
・自然とこみ上げる感謝の涙
・創造的な力の解放
・マントラの効果の実感
・ヨーガや瞑想による明確な恩恵
・感受性や心の脆さの増加
・精神的な感受性のない友人と関係を保つのが難しくなる
・偉大な師の言葉を読むと、たとえ言葉で説明できなくても、深いレベルで「理解」できる感覚
シャクティパータの体験は、最終的な境地の「予告編」のようなものです。それは数秒から数日続くかもしれない、私たちの真の本性への一時的な没入です。
この視点から見ると、現実はあるがままに見えてきます:意識という一つの無限の光がさまざまな波長で振動し、喜びに満ちた相互の舞いを成している、と。多くの場合、それは、自分が神と深くつながっていると感じるなんらかの形で現れます。
強いシャクティパータを受けた人がしばしば犯す過ちは、「自分はもう悟ったのだ」と信じ込むことです。この誤解は、周囲の愛する人々にとってとても苦しいものであり、本人がその信念に固執すれば、精神的なバランスを崩し、回復に時間がかかるような状態に陥ることもあります。大切なのは、自分が受け取った恵みの価値を正しく見つめながらも、謙虚さを失わずに「この恵みは、完全な目覚めが実在し、目指す価値のあるものであることを示すためのもの」であり、「最終的な到達点ではない」ことを理解することです。
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